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『男のロマンを求めて!』

 
◇◇オーストラリア大陸 南北縦断6,000キロに挑戦◇◇

                    〜学生時代の夢、40年後の今になって実現化〜
                         
                                      元一橋大学自動車部員の60歳の青春
・・・・・前  編・・・・・            

【青春時代の自動車部員】

  昭和40年代の初め、小さな中古車整備工場を思わせるような雑然とした部室の前で、油のしみで汚れたつなぎを着た部員達が、車の下にもぐったりして、次の国内遠征やラリーのための整備と準備に余念がなかった。自動車部員であれば誰しもが、この青春真っ只中の学生時代に、車を連ねて海外に遠征してみたいとの夢を、いつも胸に持ち続けていたものだった。
1958〜59年に、石原慎太郎先輩とそのチームが自動車部時代に、スクーターで南米大陸横断に成功した実績があり、その話に刺激されていたのかも知れない。

注* 一橋大学体育会自動車部は平成元年頃廃部になり、以降はOB会組織の
如水モータークラブ(JMC)として存続し活動中、会員数約190名。

【オーストラリア縦断遠征の夢】

  1967年(昭和42年)当時の2〜3年生の部員約10名が中心となり、オーストラリア大陸を 走破しようとの企画を打ち上げた。 たとえ部活動の一環とはいえ、学生がチームを組んで海外 遠征を行うと言うことは、当時はそう生易しいものではなかった。 もちろん学校の公認と、卒業生同窓会である如水会及び自動車部OB会の協力と後援がなければ、この計画の達成 は有り得なかったのである。
 計画実行のために、一定の条件が課せられた。その一つは、今後約1年間に特別ゼミを 受講し、オーストラリアの文化・政治・経済・貿易並びに日豪関係などについて調査し、レポートにまとめること。 また、OBのいる後援企業には、遠征帰国後に現地で調査したことも含めて 報告書を提出すること等であった。  
情熱に燃えていた部員達は、その夢の実現のため約1年間オーストラリアについて勉強した。   特別ゼミでは専任講師(当時)の山澤逸平先生ほか多くの方々に大変お世話になった。



【留学生だったブルース・パイパーとの出会い】

  オーストラリアからの留学生で、ブルース・パイパーという好青年がいた。毎週の特別ゼミにも参加してくれた。ゼミ終了後も、メンバー達と新宿あたりの焼鳥屋に席を移し、酒を交わしながら、時には肩を組んだりして盛り上がり、夜が更けるのも忘れたことさえあった。ほぼ同年齢であった彼との間には、短い期間であったにもかかわらず、熱い友情が芽生えていたものと確信する。 間もなく彼は帰国した。 それ以来消息も不明で、誰も彼と再会したものはいなかった。
【いよいよ出発直前の出来事、計画は延期、涙を呑む!】

  約1年間の準備期間も瞬く間に過ぎ、借りる自動車の手配や運搬の方法なども含め、大方の出発準備は整っていた。出発予定日も近づき、隊員の心は、既にオーストラリアへ飛んでいた。 1968年(昭和43年)頃の当時の情勢は、ベトナム戦争が一番激しい時で、ベ平連や  革マル派などのデモで騒然となっており、各地で学生運動が巻き起こっていた。 東大安田講堂事件をはじめ、各大学にも飛び火し、一橋の学園の中にも火の手が上がってしまった。
  そのような時代背景の中、計画実行は非常に厳しい状況になっていた。先輩が勤める多くの企業や団体からは、多大な協力と後援が寄せられていた。特に、自動車部OB先輩達からは物心両面に亘る全面的な支援を受けていた。そして、最後まで心配をしてもらっていた。
しかし、そのような情勢の中で、心から後援をしてくれた自動車部OB会としても、ある決断を 迫られていたのである。
当時自動車部OB会長であった村上明先輩(平成18年9月6日逝去)が、OB会を代表して隊員に対し、「諸君、残念だが延期しよう・・・。」と、声を詰まらせながら苦渋の決断を下された。 1年間準備してきた隊員にとって、「延期」とは「中止」を意味するものであった。ましてや 4年生が卒業してしまえば、この計画はご破算である。つらい役目の村上会長は「中止」とは言い難かったのかも知れない。 もしくは何年後かの将来に、この計画が再度浮上して再現することが有り得るだろうと、予測していたのかもしれないが、今となっては、誰も知る由もない。
予定していた隊員達は複雑な気持ちであった。 学校側から、自動車部顧問の藤澤先生を通して、「中止せよ」との正式な連絡が入ったのはほぼ同時期であった。全員涙を呑んだのである。 


【それから40年、還暦を迎えて】
 
熱かった青春時代は、瞬く間に過ぎ去って行った。 還暦を迎える年代になってしまった。
学生時代に、遠征計画の準備のために中心的に活動していた、朗らか者の土岐立君(舞鶴出身)と、しっかり者で頼りになる江連正彦君(宇都宮出身)の二人は、残念ながら、志半ばで若くしてこの世を去った。
  自動車部員であった旧メンバー数名が、月一回程度集まるようになったのは、2003〜4年頃からであろうか。寄り合う所は、いつも如水会館14階「一橋クラブ」のラウンジと決まっていた。顔を合わせると、誰からともなく、学生時代の不発に終ったオーストラリア遠征の話題が、つい口に出てしまうのであった。グラスを傾けながら、「青春時代の夢をもう一度!」、「還暦の記念に、オーストラリア大陸を走ってみたい」、「エアーズロック(ウルルUluru)の頂上に登って、真っ赤な夕日を見たい」・・・・などと。


【出発は2008年の秋に決定、Uluru(エアーズロック)に挑戦】

  当時のメンバーも卒業以来、皆それぞれの人生を過ごして来た。まだ現役の者、間もなく 退職予定の者、既に退職してサンデー毎日の者などなど。しかし、40年経っても、還暦を迎えようとする男達の心の底には、一つの共通した想いがひたひたと流れていたのである。    「還暦の記念に、全員で揃って、何かをしようではないか」、「青春時代の夢を皆で実現させよう」、「共通する男のロマンを追及しようではないか」、との想いがますます募っていった。
ついに2007年、桜が満開の頃、全員の心が一致し、話がまとまった。

・「オーストラリア大陸縦断という学生時代の夢を、実現できるのは今しかない!」
・「エアーズロック(ウルル)のピークにも挑戦しよう。」
・「出発予定は来年(2008年)の秋を目途としよう。」
・「出来ればブルース・パイパー(Bruce Piper)と40年ぶりに再会したい。」


【2008年秋に向けて、着々と準備が進む】

  毎月定期的にミーティングを開き、隊員の編成・コースの設定・スケジュールの作成・ホテルの予約・レンタカーの予約・ユニフォーム等の製作・航空券予約等など、手際よく着々と準備が進められていった。 いつもその中心的役割を果たしていたのが、主に次の男達である。   昭和45年卒業の浅井雅昭、大澤 淳、早乙女立雄、冨岡敏明、藤井正夫、並びに46年卒の国光孝洋、横山 悟 のいわば “七人の侍” である。
  また、大事なチェックポイントになると、適切なアドバイスをタイムリーにヒットしてくる、JMC 幹事長の石垣禎信先輩(昭和44年卒)が控えているので、準備チームのメンバーにとっては 非常に頼もしい存在となっている。 更に40年前、当時の自動車部OB会長村上先輩と共に 苦渋の決断を迫られた時以来、非常に残念に思い続けて来た石坂芳男先輩(現JMC会長)は、今回の遠征計画が思いがけなくも復活し、いよいよ実現しようとしていることに、我がことのように大きな喜びと期待を抱いているOBの一人でもある。  石坂先輩からの献身的なサポートは、準備チームのメンバーにとっては、絶大なる心の支えとなっている。
 
  JMCのホームページの編集長も務める大澤は、いつもきめ細かなメール連絡や、時には 直接出向くなど、持ち前の行動力により、上手に全体調整を図りつつ、プロジェクトの推進役を担っている。 また、卓越した発想力・企画力を持つ冨岡の意見と行動力が、今回の計画推進の原動力ともなっている。 更に冨岡のPCからの検索や情報収集力は抜群である。 サッカーに例えるなら、大澤・冨岡がフォワードのツートップ的存在である。
  海外経験が豊かな藤井は、幅広いネットワークと流暢な語学力を活かしながら、信憑性の 高いオーストラリアの最新情報をいち早くもたらせ、準備チームに大いに貢献している。
  綿密なスケジュールや行程ガイドブックなどを作成させたら、素晴らしい技量を発揮するのが浅井である。 緻密な性格は学生時代から変わっていない。自動車部時代は会計を担当していたことがあった。  また、大きな夢を語らいながら、かつ繊細な性格を兼ね備えている  早乙女は持ち前の表現力で、ユーモアを交えながらの味のある文章を書くことがあり、メンバーを楽しませている。
  ブレザーやユニフォーム用のブルゾン・ポロシャツなどの調達や、色・大きさなどの交渉を 一手に担っているのが国光である。  ポロシャツやブレザーにつける刺繍やエンブレムの  デザインまでも国光が自ら考案してきたが、その出来栄えは非常にすばらしく、プロ並みの  技量ではないかと、チームの全員を驚かせた。 また、自動車部OB会の中で、ワインに関するエキスパートと言われている横山は、アデレードからのワイン街道を走行する際に、楽しい企画を考えることで余念がない。

  残暑も落ち着いてきた8月22日の夕べに、遠征隊の第1回経過報告会並びに「壮行会」が催された。揃いのブレザーやユニフォーム姿の面々が写真に納まっている。
【 B.パイパーを発見!再会の夢が間もなく実現 】

今回の遠征の目的の一つに、「出来ればブルース・パイパーと40年ぶりに再会したい。」
がある。あらゆる手段で探してみた。インターネットから同姓同名の顔写真が現われたが、どうも雰囲気が違うな、ということもあった。如水会名簿や留学生からの情報をもとに、何人かの手を煩わせながらメールのやり取りをしていた冨岡が、それらしき人物にたどり着いた。
確認のため本人にメールを出したところ、「まさしく私が本人です。40年前に自動車部の皆さんと過ごしたのを今でもはっきりと覚えています。当時一緒になって遠征準備をお手伝いしたが、中止になって大変がっかりしました。今回冨岡さんからの連絡が入り、大変な驚きと喜びに満ち溢れています・・・・」と言う趣旨の返事が返ってきた。ついにB.パイパーを発見したのである。40年前に別れた時、奇跡的というか運命的な再会が再び訪れようとは誰も想像し得なかった。彼との友情の絆は、まだはっきりと残っていたのである。彼はシドニーの近くに、日本人の奥様とお嬢様達に囲まれ元気に暮らしている。
さらに、嬉しい知らせが舞い込んだ。B.パイパーが、今回の遠征隊に最初からウルルまで、一緒に参加したいとの申し出である。全員が諸手を揚げて喜んだのは言うまでもない。


【参加隊員】

先発隊(ダーウィン〜シドニー): 大澤 淳、冨岡敏明、藤井正夫、国光孝洋、横山 悟
後発隊(ウルル〜シドニー): 浅井雅昭、早乙女立雄
特別現地参加(ダーウィン〜ウルル): ブルース・パイパー
途中特別参加(アデレード〜シドニー):石坂芳男、石垣禎信
         (メルボルン〜シドニー):樫崎規夫
遺影による参加(全行程): 故土岐 立、故江連正彦、故村上 明(元JM・COB会長)


【主な走行日程】

10月31日: 成田出発、 
11月 1日: 空路にてケアンズ経由でダーウイン着、ダーウイン泊
11月 2日: ダーウィン出発、 ⇒ カカドウ国立公園泊
11月 7日: ウルル(エアーズロック)登山
11月 9日: アデレード着
11月11日: メルボルン着
11月12日: シドニー着(14日までシドニー滞在)

以上

〈 2008.08.26現在   文責;早乙女立雄 〉
  

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